前回の続きのようでそうでもないんですが全くゴールデンウィークに関係のない毎度の無駄話おつきあください。
真夜中という言葉を目の前に浮かべてぼんやり眺めていたら
大きくわけて2つほどの思いに収束していきました。
ひとつは、僕が好きな文化的なものやそれを生み出した人達は恐らく真夜中に活動しているひとが多いし
それを感受して生きてきたのだから真夜中というもの自体に浸っていたい気持ちや、それが心地いいのなんて当たり前だろうなということ。
もうひとつは、真夜中を共有できるひとがそばに居るならばそれはとても幸せなことだということ。
そばにはいないまでも、Twitterであのひとがボソッっとクリエィティブな愚痴をこぼしているのを読んで、そっとお茶とお菓子を持ってそばにいきたくなる気持ちを抱いたりすることで、今日明日ぐらいは人生を諦めずひとまず暮らしていこうと思える。
最近憤ったことを吐露している、遠くに暮らす友人のツイートを見て、自分が2001年宇宙の旅のモノリスを作った超宇宙意思的な透明な存在になっちゃったり、あとはもういっそ爽やかな生霊(ボキャブラのネタ…って20年近く前のフレーズを急に引用する癖やめた方がいい。やめないけど。)でもいいんだけど、とにかく飛んでいって、そっと抱きしめたくなったり、そーなるといよいよ「映画 ゴースト ニューヨークの幻」みてーなことになってきて「ロクロも持っていかなきゃ!ちょっとまって!そもそもその友人とはそんなエロくロクロ回すような間柄じゃないのに!」とか
あと、たしか霊媒師?役で出てくるウーピー・ゴールドバーグと
最近よく飲んでるキューピーコーワゴールドって
なんかもうほぼ同じだよね!
なんてね。思いましたねぇ…(昼から赤ら顔)
真夜中に活動するひとが好きなのか真夜中自体が好きなのかよく分からなくなったけど、両方好きなんだなーっていうぼんやりとした話。
あと余談で…
真夜中につくったものを翌朝改めて冷静に眺めるとどーしようもないものだった…ってよくある話だけど、真夜中につくるということ自体やその興奮がその時必要だったんじゃないかな。
目覚めたら隣に知らないひとが寝ていた…なんて経験はさすがにないんだけど、酒場でダバダみたいなことはあって。
ベロベロに酔ってる相手に自分もへべれけなのに肩を貸して、お互い言葉では何も確認しないながらも足は素直にホテルへ向かって、いざチェックインすると、もう2人ともそこそこシャキッとしていて自分の家にいるかのように慣れた感じで流れるようにシャワーを浴びたりして、翌朝冷静に考えると全然好きじゃない。付き合えない。
でもこうして今わざわざ書いているのはなんなんだ。
キャパオーバーで自分の気持ちが量りきれずに溢れて終わってしまったけど、本当は違う結末があったかもしれない。
だってあの真夜中には気持ちが通ったんだから。あの真夜中はもう来ない。
過去や思い出の中に生きるようなことはみっともないのかもしれないけれど、それが尊い時間だったって後からしか気付かない。
時間は流れているようで本当は一コマ一コマだから、本当に写真のフィルムへ(チェキでもいいから)収めたら、大事にしまっておけるし棺桶にも入れられるってね。